UWC中国長期留学で英語漬け国際バカロレアをする現役高校生

UWC中国長期留学で英語漬け国際バカロレアできなかった卒業生

高校2年夏に中退し、日本協会派遣生としてUWC中国校に2年間長期留学するはずだったが、COVID-19によりカレッジ滞在歴4ヶ月となり、運悪すぎる前代未聞の派遣生となったルムの話(国際バカロレアはかろうじて取れました)

IBって自由だけど、評価は公平なの?

IB1年間やってきて、IBというカリキュラムの感想を包み隠さずぶっちゃけます!ただその感想と言うのが感覚的なもので、IB経験ない人への言語化しての説明がかなり難しいため、まとまりがない文章だったり理解がしにくい部分が多いかもしれません…精一杯がんばりました。

 

Twitterでも宣言するようにそろそろ大学のことを完全に決めるタイムリミットが迫っています…私個人の進路選択の話ですが、IB生の一人がどういう風にして進路を決めたか、世界の誰かの参考になればいいかな、って思ってその進路決定に至った話も後日記事にしようと思っています。

 

そしてブログのこれから、についてですが、一年後、中国校を卒業したときにブログをどうするかっていうことについてはまだ決めてないのですが、引き継いでもらえる後輩ちゃんもいなくなったため、細々と大学の話とか自分語りを続けていこうかな、って今考え中です。ま、一年もあるのでのんびり考えます!

 

 

IBは教科選択が特に自由

 

そもそもこのIB、日本の高校教育と比べてまず大きく違うのは勉強する科目。日本では指定された沢山の科目を勉強し、学年が上がるにつれて文系理系に分かれて科目を選択するのに対して、IBは6科目を生徒自らがカスタマイズします。

 

もちろん家庭科も体育もない。選べる科目は多種多様で、日本なら大学でしか勉強しない心理学に経済学、コンピューターサイエンスや宇宙生物学、海洋学など選べます。中国語も取れるし、Filmって呼ばれる映画製作の授業もある。

 

実に自由です。その代わり生徒は自分が選んだ科目に自分で責任を取ることになるので、慎重に選びます。私みたいに抽選で運悪く定員オーバーで取りたい科目とは全く違うものを取ることになる危険性もごく稀にありますが。これは特殊な例なので特に気にしないでいいです。

 

私がUWCに行こうと思った理由もここにあります。経済学に興味があって、(というか、経済学に分類される阪大で研究されている「仕掛け学」っていうのに興味があって)、大学まで待ちきれずに経済を勉強したいと飛び込みました。

 

後は日本でやっていた他の科目に特に興味が湧かなくて、自分で自分が勉強したい環境を作れるっていうDIY感に魅了されて応募しました。

 

とはいっても自由であるということとは、裏を返せば、全て自己責任であるということ。何度も思うのですが、IBを前にすると緊張感が半端ないです。

 

こういう風にIBがいかに自由か、をちょこっと書きましたが、正直いってIBで自由だと感じたのは教科選択までです。それからは息が詰まるような、堅苦しい感じです。

 

IBの自由と公平の共存のためのシステム

 

言語化して説明するのが難しいのですが、頑張ってなんでIBはこんなにも自由なのにこんなにも堅苦しいのかを説明してみます。

 

さっき書いたようにIBの目的は多種多様な教育を提供することで豊かな人材を育成すること。それが今まで書いてた「自由」にあたります。

 

でも完全に自由であるということは人それぞれ、勉強の実力の発揮の仕方(例えば、エッセイ書いたときに異なる人が書けば同じ考えでも別物になる)が異なってしまう。実力発揮の仕方が異なれば、成績を公平に評すことはとてつもなく難しい。

 

そこで「自由」と「公平」の共存を求めた結果、IBはSyllabusという勉強項目とCriteriaという評価方法のシステムを作りました。Syllabusに沿って勉強し、Criteriaで試験の評価をする。生徒はSyllabusという、それぞれの教科の肉を削げ落としたような骨を確実に理解し、Criteriaの項目に100%合致するようにすることが求められる。

 

SyllabusよりもCriteriaの方が公平性を保つ役割をすることが多いため、CriteriaがIBの中でどのようにして公平性を保っているのかを説明します。

 

Criteriaで公平に成績を評価する

 

IBやってない人はCriteriaっていうのは日本で受ける模試の模範解答のようなものかな、と思うかもしれませんが、半分正解で半分不正解です。一語一句あっていないといけない、とかいう模範解答ではなく、こういう考えのことを書くといった抽象的な模範解答です。

 

そもそも、IBは日本の試験とは違い、暗記した一問一答の回答を求めるのではなく、文系科目だろうが、理系科目だろうが、基本的に「記述された」回答を求めます。文学などは特にそうです、筆記試験は全てエッセイ。

 

なぜかというと、記述された回答こそ生徒の学問の理解度がわかるから。一問一答では頭にただ叩き込んだのか、それとも本当に真髄まで理解できているか判断できません。

 

ただ日本での大学入試改革で疑問視されていたように、記述式問題では点数評価の公平性が問われます。そこでCriteriaという評価項目に合わせて点数をつけることで、なるべく公平に保とうとするわけです。

 

IB生が自由と公平の共存に苦しむわけ

 

だがしかし!当たり前ですが、いくらCriteriaを用いたところで完全に公平にはならない。それならばどうするか!

 

答えは、どうもできない、です。自由な記述式にすることで生徒の質を高めることができますが、その代償に生徒の評価の公平性を損ねる。それを認めたのがIBだと思います。

 

結論としてはIBは自由と公平を限りなく追求したカリキュラムですし、これからもいかに自由であり続け、それでいながら公平であるかを求める、変化し続けるカリキュラムです。公平性の追求を決して諦めているわけではありません。実際に、IBでは7年に一度必ず教科のSyllabusを変えます。

 

っていうことになりますが、生徒からしたらできるだけ公平に評価してもらいたいですよね。でもシステムからこれ以上歩み寄ってもらえないならば、生徒がシステムに出来る限り合わせればいいんです。これがIBで有名なストレスの原因ですね。

 

システム、つまりSyllabusやCriteriaを出来る限り理解し、歩み寄ってIBの型に自分が合わせることが自由であるはずなのに堅苦しさとストレスを生んでいるわけです。何せ自分本来の表現方法ではなくて、IBが指定したIB流の方法で自分の教養をお披露目するわけなので。

 

やっぱり自分をIBの型に当てはめるのは難しく、スライムのように自由自在に変形できたらなあ、って思います。まあ、完全に公平な評価なんてこの世に存在しないって私は思っているので、出来る限り頑張るかあ、というのがIBへの思いです。

 

IBの自由と公平の共存への大学の理解

 

そしてこの公平性の欠けをアメリカやヨーロッパの大学は理解している傾向が強く、また、教科によって7(IBの最高スコア)を取ることの難易度がかなり異なることを理解してもらえた上でuniversity applicationを行うことが多いです。

 

問題が日本国内。よく私がTwitterで嘆いていますが、いまだにIBそのものの認知度が低く、その上IBを認知していても、この公平性の欠けを理解しているところは私の個人的な意見では少ないです。このせいで有り得ない、天才であっても難しいスコアを取らないと大学に入学できないなんていう事態が発生するわけです。

 

なので個人的には進学という面で、IBで日本国内大学に進学するのはアメリカに行くよりも難しいと思っています。これはどうしようもない問題なので、本当にどうしようもない(日本語変だけど、本当にどうしようもない)。現実を受け入れろ、ってことですね!

 

 

 

以上がIBの自由と公平性の話でした。これはIBっていう教育の話での自由と公平ですが、これは政治においても、自由と平等の両立の難しさはどれだけ考えても簡単には解決できないですよね〜